Masuk颯太の言葉が、頭から離れない。
「渋谷から目黒のこの辺を、わざわざ選ぶか? お前の隣の部屋を、だ」
渋谷と目黒は隣り合う区だから、近いと言えば近い。けれど真尋が住んでいるのは目黒でも外れのほうで、世田谷区に近い。渋谷で働いているなら、通勤時間は確実に長くなるはずだ。
「静かな環境が好き」。晃はそう言った。でも、静かな場所なんて都内にいくらでもある。わざわざこのマンションの、この部屋を選ぶ理由にはならない。
それに、「渋谷のほう」という言い方も気になった。渋谷に住んでいたら、ふつうは「渋谷です」とだけ答えるだろう。「ほう」をつけるのは、正確には渋谷ではない場所に住んでいたからではないか。たとえば渋谷区に隣接した区なら、「渋谷のほう」というかもしれない。
考えれば考えるほど、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなる。
それでも、晃がほほえんでくれるときの目は、作り物じゃない。それだけはわかる。あのやわらかい目が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。
「はあ……もう、どうしたらいいんだよ」
真尋はベッドの上で大きくため息をついた。
晃のことを信じたい。あの人の好意は嘘じゃないはずだ。でも颯太にはいつも「お前は相手を信じすぎる」と釘を刺される。響のときもそうだった。周囲の忠告を聞かずに信じ続けて、結局「お前は重い」のひと言で終わった。
颯太の言葉と自分の気持ちのあいだで、ふらふらと揺れている。そんな自分が嫌だった。
けれど悩んでいても、日々の生活は止まらない。
相変わらず晃は差し入れを持ってきてくれる。スーパーやゴミ捨て場で顔を合わせることもある。栞堂にもときどき来て、POP付きの本を買ってくれた。先日は海外文学の棚で、真尋のPOPをじっと読んでいる晃の背中を、レジの向こうから見つけた。あの真剣な横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになった。
顔を合わせるたびに、モヤモヤはすこしずつ薄くなっていった。あの笑顔を見ると、疑いの輪郭がにじんでいく。やっぱり颯太は心配しすぎなのだ。こんな誠実な人が、なにかを企んでいるはずがない。
真尋はそう思うことにした。
ある朝、壁の向こうから鼻歌が聞こえてきた。
いつもの低いメロディ。もうすっかり聞き慣れてしまった、晃の朝の音だ。
フライパンがかちゃかちゃと鳴る。朝食を作っているのだろう。蛇口から水が流れる音。ケトルが沸くかすかな音。
それらの音を聞いていると、不思議と心が凪いでいく。
隣に晃がいる。壁一枚向こうで、同じ時間に起きて、同じように朝を迎えている。それだけのことなのに、朝の空気がすこしだけあたたかくなる。
遅番が続いたあとの早番の朝だった。目覚ましのスヌーズを三回も押してしまったのに、壁の向こうの生活音を聞いているうちに、自然と体が動いた。
顔を洗って、着替えて、コーヒーを淹れる。深煎りの豆をゆっくりハンドドリップしながら、壁越しの鼻歌に耳を傾ける。もう無意識にそうしていた。
このメロディは、なんという曲なのだろう。晃に聞いてみたい。けれど、聞けば「壁越しに聴いていた」と白状することになりそうで恥ずかしい。その気持ちが拮抗している。この前、颯太の家に行く電車の中で、無意識に口ずさんでいて自分でも驚いた。いつのまに、こんなに覚えてしまったのか。
徐々に、晃の生活音が真尋の日常のBGMになっていった。
鼻歌だけじゃない。シャワーの音を聞くと「起きたんだな」と思い、フライパンの音が聞こえたら「朝ごはんなに作ってるのかな」と考える。帰宅した気配を感じると、無意識に壁のほうに耳を澄ませてしまう。隣が空室だったころには気にもしなかった音のひとつひとつが、今は晃の存在を伝えてくる。
空室だったときは、静かで快適だった。でも今は、壁の向こうに人の気配があることが、こんなにも安心するのだと知った。
「晃さん、もうそろそろ出るころかな」
ぼそりとつぶやいた、その直後。隣の部屋のドアが閉まる音がした。
「やっぱり」
ふふ、と笑ってしまって次の瞬間、はたと我に返った。
今の。
まるでストーカーじゃないか。晃の生活パターンを完全に把握している。出かける時間も帰ってくる時間も、朝食を作っているかどうかもわかる。シャワーを浴びるタイミングさえ把握している。
颯太は「あいつがお前の生活パターンを知っているのはおかしい」と言った。けれど、今、真尋も同じことをしている。壁越しに相手の行動を推測して、当たったことに喜んでいる。やっていることの構造は、颯太が晃に対して指摘したこととまったく同じだ。
ぞわりと背筋が冷たくなった。
でも、やめられなかった。
仕事から帰ってきて壁の向こうに気配を感じると、意識がそちらに引っ張られる。今、どんな格好をしているだろう。いつもの黒縁メガネに、パーカーだろうか。それともTシャツ? 髪はおろしているのかな。料理をしているなら、袖をまくっているかもしれない。あの長い指が、包丁を握っている姿を想像して、真尋は自分の頬を叩いた。
自分でもびっくりするほど、晃のことばかり考えていた。
なんか……晃さんのこと、好きみたいじゃん。
その考えが浮かんだ瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
違う。好きじゃない。好きなわけがない。あの夜の体の相性がよかったから、引きずっているだけだ。それと、差し入れがおいしいから。料理がうまい隣人に好意的になるのは当然だ。人間は胃袋を掴まれたら弱い。そういうことだ。
……言い訳が必死すぎないか。
晃はただの隣人だ。差し入れをくれて、よく会う、ただの隣人。壁が薄いから生活音が聞こえてくるだけ。それだけだ。
そう自分に言い聞かせた。けれど、胸の奥のどこかでは、とっくにわかっていた。ただの隣人のことを、こんなにも考えたりしない。生活音を聞いて安心したりしない。鼻歌を覚えてしまったりしない。
認めたくなかった。認めたら、また「重く」なってしまう。響に言われたあの言葉が、好きだと自覚することにブレーキをかけていた。
月初の忙しさが、真尋を容赦なく襲った。
雑誌の付録セットに新刊の棚入れが重なって、朝から晩までバックヤードと売り場を往復する日が続いた。POPを書く時間も取れない。新しく入った海外文学の翻訳ものに、どうしてもPOPを付けたかったのに、付録のセット作業に追われてまったく手がつけられなかった。
本を好きで書店員をやっているのに、こういうとき、本と向き合う時間が一番削られる。それがもどかしい。
「あー……疲れた」
閉店作業を終えて、とぼとぼとマンションに向かう。六月の夜はじっとりと蒸し暑くて、シャツの襟元が首にはりつく。蒸し暑さが疲労感を増幅させる。早くシャワーを浴びて、コーヒーを淹れ、本の続きを読みたい。それだけが、今の真尋を動かしている原動力だった。エレベーターホールで到着を待っていると、聞き慣れた声が後ろからした。
「真尋さん、おかえりなさい」
振り向かなくてもわかる。晃の声だ。
真尋が振り返るより先に、晃がすっと横に並んだ。
「晃さん、お疲れさまです……」
自分でもびっくりするほど覇気のない声だった。
「あれ? 真尋さん、疲れてます?」
「わかります? 今日ほんとに忙しくて……」
エレベーターが到着して、重い足で乗り込む。そこでようやく、晃のほうに顔を向けた。
とくん、と心臓が鳴った。
仕事帰りの晃は、ダークグレーのスーツをぴしっと着こなしていた。コンタクトに、アップバングで額を出したスタイル。エレベーターの蛍光灯の下で、切れ長の目がいっそうシャープに見える。メガネのときとはまるで別人だ。
何度見ても慣れない。いつもの「メガネにパーカーの隣人」とのギャップに、胸がざわつく。バーで初めて会ったときの第一印象が蘇る。ドンピシャ好みの顔だと思った、あの瞬間。
ふわりと、グリーン系の香りが漂った。香水じゃない。柔軟剤だ。真尋と同じ銘柄の。嗅ぎ慣れたはずの匂いなのに、晃から香ると別物みたいに心地よくて、困る。エレベーターという密閉空間では、その香りから逃げ場がなかった。
「今日、メガネじゃないんですね」
なにか話さないと、この沈黙に耐えられなかった。
「仕事のときはコンタクトなんですよ。メガネだと鼻あてが合わなくて、ずれてくるんです」
真尋は横目で晃の鼻筋を見た。すっと通って、高い。横顔がきれいだと、バーで初めて会ったときから思っていた。
「そうなんですか。俺、メガネかけないからわかんないですけど……」
「はは。視力いいんですね、うらやましい」
「二・〇なんですよ。視力だけがとりえです」
「それは立派なとりえですよ」
晃が笑うと犬歯がのぞいた。その笑顔を見るたびに、胸のどこかがきゅっと締まる。
どうでもいい話だ。メガネがずれるとか、鼻あてが合わないとか。大したことじゃない。なのに、晃のことをまたひとつ知ったような気がして、妙にうれしかった。
知らなかった顔を見ている。知らなかった話を聞いている。メガネの晃とコンタクトの晃。パーカーの晃とスーツの晃。どちらも同じ人なのに、まるで二つの顔を持っているみたいで、もっと知りたいと思ってしまう。
その「もっと知りたい」が、あの夜、晃が言った言葉とまったく同じだと気づいて、耳が熱くなった。
ぽーん、とエレベーターの到着音が鳴った。
「じゃあ……」
「はい。おやすみなさい、真尋さん。ゆっくり休んでくださいね」
「おやすみなさい」
晃は手を振って、自分の部屋に入っていった。「ごゆっくり」でも「お疲れさまです」でもなく、「ゆっくり休んで」。疲れていることを察して、そういう言葉を選ぶ人なのだ。響は、真尋が疲れていても「おかえり」しか言わなかった。
――また、比べている。
真尋は自分に呆れながら、部屋に入った。電気をつけずに靴を脱ぐ。暗い玄関に立ったまま、大きく息を吐いた。疲れているのに、胸だけがやけに熱い。
スマホが震えた。
メッセージの通知。送り主の名前を見て、呼吸が止まった。
高城響。
指先が冷たくなった。半年間、一度も連絡をよこさなかった名前が、いきなり画面に浮かんでいる。
タップしようとして、指を引っ込めた。また伸ばして、また引っ込める。
「お前は重い」。あの言葉が、反射的に耳の奥で蘇る。響がどんな顔で言ったかは覚えていない。ただ声のトーンだけが鮮明に残っている。冷たくて、平坦で、もう面倒だとでも言いたげな声。あの声を聞いてから、真尋は自分の気持ちを人に伝えるのがこわくなった。好きだと思っても口に出せない。大切だと感じても、態度に出したら相手が逃げてしまう。
リビングに向かった。電気もつけずにソファに座る。暗闇のなかで、スマホの画面だけが白く光っている。
何度か深呼吸をして、ようやくメッセージを開いた。
『元気? 近くに来てるんだけど、久しぶりに会えないかな』
まるで、まだ付き合っているみたいな口調だった。半年だ。半年も経ってから、なにごともなかったみたいに「会えないかな」。あれだけ真尋の好意を「重い」と突き放しておいて。
腹が立つのか、悲しいのか、懐かしいのか。自分の感情がわからなかった。
返信の言葉が浮かばない。指が動かない。
ふと、さっきのエレベーターでの晃の顔が浮かんだ。「ゆっくり休んでくださいね」とやわらかく言ってくれた声。あの声と、「お前は重い」と言い放った響の声が、頭のなかで重なって、ぐちゃぐちゃになる。
壁の向こうから、かすかに晃の気配がした。シャワーの水音。そのあと、しばらくして、鼻歌。
いつものメロディが、暗い部屋のなかにしずかに響いてくる。
真尋はスマホを裏返しにして、ソファの背もたれに頭を預けた。目を閉じると、響のメッセージも、颯太の警告も、晃への疑念も、すべてが溶けて、鼻歌だけが耳に残った。
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――
晃が作った企画書はプロ顔負けだった。いや、まさしくプロの手による出来栄えだった。やはりプレゼンの鬼はすごい。「これ、まずは店長に提案しないといけないと思うんだよね」「わかった。俺も一緒に行くわ」「え? いいの?」 晃は大きくうなずいた。「だって、俺の真尋さんの職場のことやで。俺がちゃんと責任持ってやるわ」「いやいやいやいや。個人的な感情はいらないんだよ」「ちゃうよ。だって栞堂がなくなったら、真尋さんのPOPが見られへんやん。あれ見て本を買う人、いっぱいいんねんで。知らんやろ?」「……うん」 晃はふふんと顎を少し上げて、得意げな顔をした。「俺がどんだけ真尋さんのPOPに張り付いていたか」「いや、それもちょっとしたストーカーだから……」 真尋は思わず吹き出してしまった。山田さんが「POPイケメン追跡班」なら、晃はさしずめ「POP観察班」といったところだろうか。「ほな、いつする? 店長のとこ行くん」「晃さんの仕事の都合もあるでしょ? 仕事終わりとかでもいいし、土日でもよければそれでもいいし……」「いや、早いほうがええやろ? 明日の夜は店長さん、いはる?」 真尋は従業員の出勤スケジュールをスマホで確認した。「うん。いるよ。六時半ぐらいで大丈夫?」「全然いける。先に店長さんにだけ、話通しといてな」 まずは店長の許可を得ないといけない。それからようやくオーナーへと話をこぎつけることができる。先は長いが、一歩ずつ足を進めるしかない。 スマホのカレンダーで三か月の区切りをもう一度確認する。あと、二か月と半分ほど。時間はないが、ゼロではない。 次の日、真尋は店長に、晃と一緒に考えた企画を提案した。すると店長は涙を流して喜んだ。それもそうだろう。自分がトップを任されている店が閉店の危機に瀕していたのだ。責任を感じていたに違いない。店長はオ
店長から「店が閉店の危機に陥っている」と聞いて以来、従業員の活気は明らかに落ちた。栞堂の従業員は誰もが楽しそうに仕事をしていた。それなのに今は、みんながみんな負のオーラを纏っていて、空気がどんよりとして重かった。 真尋もきっとその中のひとりだ。自分でもわかっている。きちんと笑顔をお客さんに向けられていない。山田さんに向けたら、また般若だのハニワだの言われるに決まっている。 当の山田さんは、落ち込む様子もなく、テキパキと仕事をこなしていた。きっと山田さんの心のなかにも、真尋やほかの従業員と同じように、どんよりとした分厚い雲が垂れ込めているに違いない。けれどそれを見せずに、明るい笑顔をお客さんに向けている。 それを見て、真尋も負けていられないと思った。自分は山田さんの先輩だ。先輩がどんより暗い顔をするわけにはいかない。それに、みんなが落ち込んでいるときだからこそ、明るく振る舞わなければいけない。 真尋は両手でぱん、と頬を叩いた。「よし! 俺にできることは、POPを書いてすばらしい本を紹介することだ」 真尋は大きく息を吸い込んだ。そしてバックヤードへ向かっていった。 三か月。 その期限を考えれば、ぐずぐずしている時間はない。明日からは、POP一枚一枚にこれまで以上の気持ちを込めよう。真尋はそう自分に言い聞かせた。 仕事中はなんとか自分を鼓舞してやる気を出していたが、家に帰ると、栞堂が閉店するかもしれない不安が頭のなかを占めた。真尋にはPOPを書くことしか取り柄がない。「もっといろんなスキルがあればなぁ……」 ソファに座って、ぼんやりと天井を見つめる。 閉店を回避するには、お客さんを増やさなければいけない。来店数を上げるだけではない。売り上げも上げなければいけない。 なにか栞堂独自でフェアでもするか。それとも、大型店ではできない、顧客に寄り添った品揃えにするか。 そんなことを考えても、最終的に決めるのは店長だ。一従業員の真尋が提案したところで、採用されるとは限らない。それでも、黙って手をこま
なにかとてつもなく大きなものを耳元でいきなり落とされたみたいに感じて、音が遠のいた。店長がなにか言っているが、言葉がうまく形にならない。まるで自分のまわりに透明なガラスの囲いがあって、この世から切り離されたような感覚だった。「みんなも知ってると思うけど、このところ売り上げがよくない」 店長が説明している。けれど真尋の耳には、ほとんど届いてこない。「オーナーが売り上げの低い店をいくつか閉店することに決めたそうだ。それで、うちの店もその候補に挙がった。まだ決定じゃない。猶予は、三か月だ。三か月で数字を動かせなきゃ、閉店になる」 三か月。 その三文字が、やけに重たく耳の奥に沈んだ。 栞堂が、この店が……なくなる? 本当に? 頭の中でその言葉だけがぐるぐると渦を巻いて回り続けている。 嫌だ、そんなのは絶対に。 この場所は守り続けたい。だって、自分にとっての大切な場所だ。晃が自分を見つけてくれた場所――。 そう叫びだしそうになる。けれど、喉が詰まって言葉が出ない。「詳しいことが決まったら、またみんなに連絡する。じゃあ、今日はお疲れさん」 店長の話が終わると、従業員はばらばらとその場を立ち去っていった。ひとり、またひとりと、みな戸惑いを抱えた顔でうつむきながら歩いていく。真尋は全員が帰ったあとも、その場に立ち尽くしていた。手にしたまま忘れていた伝票が、指のあいだで折れ曲がっていた。心が追いつかない。なにも考えられなかった。「柊さん。柊さん!」 肩を叩かれて振り返ると、山田さんが心配そうに立っていた。いつものはきはきした声ではなく、ひと回り小さな声だ。「大丈夫ですか? 顔色、ちょっと悪いですけど……」「う……うん」 真尋が大きく息を吸い込むと、いままで息をするのを忘れていたのがわかった。吸い込んだ空気が胸を満たし、からだのすみずみに血がめぐる気がした。「山田さんは……知ってた?」