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第七話 壁越しのメロディ

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-04-07 11:00:06

 颯太の言葉が、頭から離れない。

「渋谷から目黒のこの辺を、わざわざ選ぶか? お前の隣の部屋を、だ」

 渋谷と目黒は隣り合う区だから、近いと言えば近い。けれど真尋が住んでいるのは目黒でも外れのほうで、世田谷区に近い。渋谷で働いているなら、通勤時間は確実に長くなるはずだ。

 「静かな環境が好き」。晃はそう言った。でも、静かな場所なんて都内にいくらでもある。わざわざこのマンションの、この部屋を選ぶ理由にはならない。

 それに、「渋谷のほう」という言い方も気になった。渋谷に住んでいたら、ふつうは「渋谷です」とだけ答えるだろう。「ほう」をつけるのは、正確には渋谷ではない場所に住んでいたからではないか。たとえば渋谷区に隣接した区なら、「渋谷のほう」というかもしれない。

 考えれば考えるほど、なにが本当でなにが嘘なのかわからなくなる。

 それでも、晃がほほえんでくれるときの目は、作り物じゃない。それだけはわかる。あのやわらかい目が嘘をついているとは、どうしても思えないのだ。

「はあ……もう、どうしたらいいんだよ」

 真尋はベッドの上で大きくため息をついた。

 晃のことを信じたい。あの人の好意は嘘じゃないはずだ。でも颯太にはいつも「お前は相手を信じすぎる」と釘を刺される。響のときもそうだった。周囲の忠告を聞かずに信じ続けて、結局「お前は重い」のひと言で終わった。

 颯太の言葉と自分の気持ちのあいだで、ふらふらと揺れている。そんな自分が嫌だった。

 けれど悩んでいても、日々の生活は止まらない。

 相変わらず晃は差し入れを持ってきてくれる。スーパーやゴミ捨て場で顔を合わせることもある。栞堂にもときどき来て、POP付きの本を買ってくれた。先日は海外文学の棚で、真尋のPOPをじっと読んでいる晃の背中を、レジの向こうから見つけた。あの真剣な横顔を見ているうちに、胸がいっぱいになった。

 顔を合わせるたびに、モヤモヤはすこしずつ薄くなっていった。あの笑顔を見ると、疑いの輪郭がにじんでいく。やっぱり颯太は心配しすぎなのだ。こんな誠実な人が、なにかを企んでいるはずがない。

 真尋はそう思うことにした。

 ある朝、壁の向こうから鼻歌が聞こえてきた。

 いつもの低いメロディ。もうすっかり聞き慣れてしまった、晃の朝の音だ。

 フライパンがかちゃかちゃと鳴る。朝食を作っているのだろう。蛇口から水が流れる音。ケトルが沸くかすかな音。

 それらの音を聞いていると、不思議と心が凪いでいく。

 隣に晃がいる。壁一枚向こうで、同じ時間に起きて、同じように朝を迎えている。それだけのことなのに、朝の空気がすこしだけあたたかくなる。

 遅番が続いたあとの早番の朝だった。目覚ましのスヌーズを三回も押してしまったのに、壁の向こうの生活音を聞いているうちに、自然と体が動いた。

 顔を洗って、着替えて、コーヒーを淹れる。深煎りの豆をゆっくりハンドドリップしながら、壁越しの鼻歌に耳を傾ける。もう無意識にそうしていた。

 このメロディは、なんという曲なのだろう。晃に聞いてみたい。けれど、聞けば「壁越しに聴いていた」と白状することになりそうで恥ずかしい。その気持ちが拮抗している。この前、颯太の家に行く電車の中で、無意識に口ずさんでいて自分でも驚いた。いつのまに、こんなに覚えてしまったのか。

 徐々に、晃の生活音が真尋の日常のBGMになっていった。

 鼻歌だけじゃない。シャワーの音を聞くと「起きたんだな」と思い、フライパンの音が聞こえたら「朝ごはんなに作ってるのかな」と考える。帰宅した気配を感じると、無意識に壁のほうに耳を澄ませてしまう。隣が空室だったころには気にもしなかった音のひとつひとつが、今は晃の存在を伝えてくる。

 空室だったときは、静かで快適だった。でも今は、壁の向こうに人の気配があることが、こんなにも安心するのだと知った。

「晃さん、もうそろそろ出るころかな」

 ぼそりとつぶやいた、その直後。隣の部屋のドアが閉まる音がした。

「やっぱり」

 ふふ、と笑ってしまって次の瞬間、はたと我に返った。

 今の。

 まるでストーカーじゃないか。晃の生活パターンを完全に把握している。出かける時間も帰ってくる時間も、朝食を作っているかどうかもわかる。シャワーを浴びるタイミングさえ把握している。

 颯太は「あいつがお前の生活パターンを知っているのはおかしい」と言った。けれど、今、真尋も同じことをしている。壁越しに相手の行動を推測して、当たったことに喜んでいる。やっていることの構造は、颯太が晃に対して指摘したこととまったく同じだ。

 ぞわりと背筋が冷たくなった。

 でも、やめられなかった。

 仕事から帰ってきて壁の向こうに気配を感じると、意識がそちらに引っ張られる。今、どんな格好をしているだろう。いつもの黒縁メガネに、パーカーだろうか。それともTシャツ? 髪はおろしているのかな。料理をしているなら、袖をまくっているかもしれない。あの長い指が、包丁を握っている姿を想像して、真尋は自分の頬を叩いた。

 自分でもびっくりするほど、晃のことばかり考えていた。

 なんか……晃さんのこと、好きみたいじゃん。

 その考えが浮かんだ瞬間、心臓がどくんと跳ねた。

 違う。好きじゃない。好きなわけがない。あの夜の体の相性がよかったから、引きずっているだけだ。それと、差し入れがおいしいから。料理がうまい隣人に好意的になるのは当然だ。人間は胃袋を掴まれたら弱い。そういうことだ。

 ……言い訳が必死すぎないか。

 晃はただの隣人だ。差し入れをくれて、よく会う、ただの隣人。壁が薄いから生活音が聞こえてくるだけ。それだけだ。

 そう自分に言い聞かせた。けれど、胸の奥のどこかでは、とっくにわかっていた。ただの隣人のことを、こんなにも考えたりしない。生活音を聞いて安心したりしない。鼻歌を覚えてしまったりしない。

 認めたくなかった。認めたら、また「重く」なってしまう。響に言われたあの言葉が、好きだと自覚することにブレーキをかけていた。

 月初の忙しさが、真尋を容赦なく襲った。

 雑誌の付録セットに新刊の棚入れが重なって、朝から晩までバックヤードと売り場を往復する日が続いた。POPを書く時間も取れない。新しく入った海外文学の翻訳ものに、どうしてもPOPを付けたかったのに、付録のセット作業に追われてまったく手がつけられなかった。

 本を好きで書店員をやっているのに、こういうとき、本と向き合う時間が一番削られる。それがもどかしい。

「あー……疲れた」

 閉店作業を終えて、とぼとぼとマンションに向かう。六月の夜はじっとりと蒸し暑くて、シャツの襟元が首にはりつく。蒸し暑さが疲労感を増幅させる。早くシャワーを浴びて、コーヒーを淹れ、本の続きを読みたい。それだけが、今の真尋を動かしている原動力だった。エレベーターホールで到着を待っていると、聞き慣れた声が後ろからした。

「真尋さん、おかえりなさい」

 振り向かなくてもわかる。晃の声だ。

 真尋が振り返るより先に、晃がすっと横に並んだ。

「晃さん、お疲れさまです……」

 自分でもびっくりするほど覇気のない声だった。

「あれ? 真尋さん、疲れてます?」

「わかります? 今日ほんとに忙しくて……」

 エレベーターが到着して、重い足で乗り込む。そこでようやく、晃のほうに顔を向けた。

 とくん、と心臓が鳴った。

 仕事帰りの晃は、ダークグレーのスーツをぴしっと着こなしていた。コンタクトに、アップバングで額を出したスタイル。エレベーターの蛍光灯の下で、切れ長の目がいっそうシャープに見える。メガネのときとはまるで別人だ。

 何度見ても慣れない。いつもの「メガネにパーカーの隣人」とのギャップに、胸がざわつく。バーで初めて会ったときの第一印象が蘇る。ドンピシャ好みの顔だと思った、あの瞬間。

 ふわりと、グリーン系の香りが漂った。香水じゃない。柔軟剤だ。真尋と同じ銘柄の。嗅ぎ慣れたはずの匂いなのに、晃から香ると別物みたいに心地よくて、困る。エレベーターという密閉空間では、その香りから逃げ場がなかった。

「今日、メガネじゃないんですね」

 なにか話さないと、この沈黙に耐えられなかった。

「仕事のときはコンタクトなんですよ。メガネだと鼻あてが合わなくて、ずれてくるんです」

 真尋は横目で晃の鼻筋を見た。すっと通って、高い。横顔がきれいだと、バーで初めて会ったときから思っていた。

「そうなんですか。俺、メガネかけないからわかんないですけど……」

「はは。視力いいんですね、うらやましい」

「二・〇なんですよ。視力だけがとりえです」

「それは立派なとりえですよ」

 晃が笑うと犬歯がのぞいた。その笑顔を見るたびに、胸のどこかがきゅっと締まる。

 どうでもいい話だ。メガネがずれるとか、鼻あてが合わないとか。大したことじゃない。なのに、晃のことをまたひとつ知ったような気がして、妙にうれしかった。

 知らなかった顔を見ている。知らなかった話を聞いている。メガネの晃とコンタクトの晃。パーカーの晃とスーツの晃。どちらも同じ人なのに、まるで二つの顔を持っているみたいで、もっと知りたいと思ってしまう。

 その「もっと知りたい」が、あの夜、晃が言った言葉とまったく同じだと気づいて、耳が熱くなった。

 ぽーん、とエレベーターの到着音が鳴った。

「じゃあ……」

「はい。おやすみなさい、真尋さん。ゆっくり休んでくださいね」

「おやすみなさい」

 晃は手を振って、自分の部屋に入っていった。「ごゆっくり」でも「お疲れさまです」でもなく、「ゆっくり休んで」。疲れていることを察して、そういう言葉を選ぶ人なのだ。響は、真尋が疲れていても「おかえり」しか言わなかった。

 ――また、比べている。

 真尋は自分に呆れながら、部屋に入った。電気をつけずに靴を脱ぐ。暗い玄関に立ったまま、大きく息を吐いた。疲れているのに、胸だけがやけに熱い。

 スマホが震えた。

 メッセージの通知。送り主の名前を見て、呼吸が止まった。

 高城響。

 指先が冷たくなった。半年間、一度も連絡をよこさなかった名前が、いきなり画面に浮かんでいる。

 タップしようとして、指を引っ込めた。また伸ばして、また引っ込める。

 「お前は重い」。あの言葉が、反射的に耳の奥で蘇る。響がどんな顔で言ったかは覚えていない。ただ声のトーンだけが鮮明に残っている。冷たくて、平坦で、もう面倒だとでも言いたげな声。あの声を聞いてから、真尋は自分の気持ちを人に伝えるのがこわくなった。好きだと思っても口に出せない。大切だと感じても、態度に出したら相手が逃げてしまう。

 リビングに向かった。電気もつけずにソファに座る。暗闇のなかで、スマホの画面だけが白く光っている。

 何度か深呼吸をして、ようやくメッセージを開いた。

『元気? 近くに来てるんだけど、久しぶりに会えないかな』

 まるで、まだ付き合っているみたいな口調だった。半年だ。半年も経ってから、なにごともなかったみたいに「会えないかな」。あれだけ真尋の好意を「重い」と突き放しておいて。

 腹が立つのか、悲しいのか、懐かしいのか。自分の感情がわからなかった。

 返信の言葉が浮かばない。指が動かない。

 ふと、さっきのエレベーターでの晃の顔が浮かんだ。「ゆっくり休んでくださいね」とやわらかく言ってくれた声。あの声と、「お前は重い」と言い放った響の声が、頭のなかで重なって、ぐちゃぐちゃになる。

 壁の向こうから、かすかに晃の気配がした。シャワーの水音。そのあと、しばらくして、鼻歌。

 いつものメロディが、暗い部屋のなかにしずかに響いてくる。

 真尋はスマホを裏返しにして、ソファの背もたれに頭を預けた。目を閉じると、響のメッセージも、颯太の警告も、晃への疑念も、すべてが溶けて、鼻歌だけが耳に残った。

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